雨上がりの夜に ― 2012/07/20 21:32
雨上がりの夜に
空白 藍
黄色、緑、白、青、赤の
大きな光る葱坊主
瞬き、色を変え
流れ、昇り、滑り落ち
蛇行する
つられて動き出すは
機械仕掛けのエム型の蟹
作り物の月虹に誘われて
無様で軽やかな音の
ステップを踏む
移り行く人工の虹は
蟹のスポークを通り抜け
レースのいろどりを
夜道に浮かび上がらせる
目標は火炎樹のした
生身の体にありつこう
空白 藍
黄色、緑、白、青、赤の
大きな光る葱坊主
瞬き、色を変え
流れ、昇り、滑り落ち
蛇行する
つられて動き出すは
機械仕掛けのエム型の蟹
作り物の月虹に誘われて
無様で軽やかな音の
ステップを踏む
移り行く人工の虹は
蟹のスポークを通り抜け
レースのいろどりを
夜道に浮かび上がらせる
目標は火炎樹のした
生身の体にありつこう
秋の日に一休み一休み ― 2011/11/21 21:29
山里に住む小坊主の私はこの季節になると大忙し

境内は奇麗に色づいて

赤や

黄色で大賑わい

落ち葉は掃いても掃いてもきりがない

和尚様に見つからないように一休み一休み
小説(誰も知らない物語)② ― 2011/11/17 12:14
「誰も知らない物語」
津々井 茜
2
誰が芸術家なんよ? と綾音は笑うが、和臣から見れば小説家だの役者だのというものは芸術家である。さっきからその芸術家ふたりが、俗人そっちのけで議論をしている。ついていけない。
「実話ってなぁ、あんなもんが実話であるわけないだろ。小説だと認めろよ」
「小説とちがうもん。エッセイですよぉだ」
「嘘つけ」
「手紙を書いたやないの」
「あんなもんはいつものおまえの嘘だと決め込んでた」
「人を嘘つき呼ばわりばっかして」
「事実だろうが」
長身の男ふたりにはさまれた女は、山下和臣の最愛の彼女である牧野綾音、小説家。和臣ともうひとりいる男は綾音の親友で、和臣ともいつしか親しくなった藤波俊英、俳優である。
「和ちゃんは信じてくれるよね?」
「信じるのか、和さん?」
「信じてこそ恋人でしょ」
「たとえ恋人であろうとも、それとこれとは話が別だよな、和さん?」
ふたりがかりで別のことを言って問い詰める。和臣は返事ができない。
「とにかく宿の女将さんに頼んだから、も一回見せてもらうの。そのために来たんよ」
過日、和臣は連れていってくれずにひとりで骨休めに出かけた綾音が、京都郊外の宿で怪異現象に遭遇したという。その話をメシのタネにするところは、さすが作家だと俗人の和臣は思う。嘘でもエッセイでも小説でもいいではないか。
うっすらと雪に覆われた、鄙びた宿にやがて到着した。恰幅のいい女将は綾音とはなじみだが、藤波とも和臣とも会うのははじめてで、綾音とふたりの男の関係を推し量っている様子だった。
「このぼさーっとした人が私の彼氏で、こっちのかっこいい人が……て、女将さん、藤波のトシさんは知ってはりますよね」
「はあ、それはもちろん。ようこそおこしやす」
「おいこら、綾音」
おいこら、は藤波の発言である。
「俺はともかく、和さんの紹介の仕方はなんなんだ、それ」
「うるさいね。小姑みたい。言うたげよか。私はぼさーっとした和ちゃんが大好きなんですよ」
「あ、そ」
「まあま、ごちそうさま」
ころころと女将が笑った。
「山下さんと藤波さんどすな。これからはどうぞごひいきに。よろしゅうお願い申します」
無遠慮な綾音の言葉に目を白黒させたものの、さすが商売人は立ち直りが早い。女将は京都の中心部の出身で、生まれも旅館の娘だと綾音から聞いている。如才なさと愛想のよさは天性のものであるらしい。
いそいそと藤波の案内を従業員にまかせ、自身は綾音と和臣を部屋に導いていった。
「トシさんの部屋にこの間の掛け軸、用意しといてくれました?」
「お言いつけ通りにしときましたけど……」
掛け軸の絵の女が夜中にあらわれる、などと言っては営業妨害になりかねないと、綾音は懸念していた。今どきの若者なら見たがってむしろ押し寄せそうにも思うが、ひっそり営むこの宿にはそれも迷惑だろう。
「トシさんがえらく興味を示したから、見せてもらおうと思いましてね。ね、女将さん、かっこええでしょ、藤波さんて」
「そんな彼氏の前で……」
「ええのええの、ね、和ちゃん?」
「うん、トシさんはたしかにかっこええ」
「けど、あたしの彼氏は和ちゃん」
「そうそう」
えらい変わったカップルやわ、と女将の目が語っていた。藤波も常々そう言う。他人にもよく言われるので、和臣は慣れっこだ。
「俺もその絵を見たいな。トシさんの部屋に行ってもええやろか」
「ええんちゃう。行ってみよ」
隣室に行ってみると、藤波はコートを脱いだだけで壁を睨み据えていた。グレイのセーターに色の落ちたジーンズ姿だ。藤波の身長は和臣と大差ないが、脚の長さがあまりにもちがう。同じような服装をしていてこれだけ差がつくのは、和臣にはどうも解せない。センスとルックスの差はいかんともしがたいのであろうか。
芸能界の水に洗われてあかぬけるっつうんは、男にもあるんやろな。和臣はそう考えておのれを納得させた。
壁には目立たない掛け軸がかかっている。さして器量がいいともいえない若い娘が、地味な和服をまとって地味にすわっている絵だった。相当に古びた絵で、素人目にも江戸時代のものにまちがいないと思える。
「どう、トシさん?」
「わかんねえ」
「こんなもんは、って言えへんの?」
「絵を見ただけじゃわからない。酔うと見えるのか。そんなら酒飲んで早めに布団にもぐり込もう。和さん、風呂はどうする?」
「どうする、綾音?」
「綾音と家族風呂に入る? あああ、ひとり者はつらいよ。俺は風呂に行ってくる」
「ひとりで怒ったり嘆いたり、忙しいひとやね」
苦笑いの綾音の前を足音も荒く横切って、藤波は風呂場のほうに立ち去った。綾音が背伸びして和臣に耳打ちする。
「あれで実はわくわくしてるんよ」
「今夜の怪奇現象にか。俺は綾音といっしょに風呂に入れるのにわくわくするなぁ」
「きゃあ、えっち」
「あほ」
ごたごたしているうちに夕食の時間になった。女ひとりならば野菜料理中心の食事でもいいだろうが、男性たちには物足りないだろうと、女将がしし鍋を用意してくれた。テーブルには白ワインや伏見の銘酒なども並び、しごく賑やかだ。
「おまえの小説では、明里だと勝手に決めた女は冥土に旅立ったんだろ」
小説、勝手に決めた、あたりを強調して藤波が言う。
「だったら二度と出てこないんじゃないのか」
「そうかもしれんけど、雰囲気だけでも味わって。今夜も雪になりそうよ」
「邪魔して悪いね、和さん」
「いいえ、慣れてますから」
「実は邪魔か」
「ま、ちょっとは」
くっくと笑った綾音が、和臣と藤波に酒をついでくれた。
* * *
すっかり感化されちまってやがる、と藤波は苦笑するしかない。
半信半疑というべきか、どうせ毎度の嘘八百だろ、と笑い飛ばせずにここまで綾音についてきた。ほろ酔いで夜具に横たわり、なにかが起きるのを待っている。
なにも起きはしなかった。起きはしなかったけれど、藤波はいつしか眠りに漂っていき、夢を見たのだ。
「会えたんだな」
「へえ。こんなに長いこと、待っててくれはりましたんえ」
「長いこと長いことだったね。よかったな」
「おおきに」
絵に描かれていた女が、涼やかに微笑む。絵で見るよりも美人に見えた。
「これでやっとこさ、いっしょになれますわ。そやけど、好きや、て言うてくれはらへん。なんでうちにこんなに優しうしてくれはるの? て訊いても、前からそうやったわ。まだ言うてくれはりまへん。言うてほしいのに」
「昔の男はそんなもんじゃないのかね。正直言うと、今どきの男も苦手だよ。女に好き、なんて言うのは」
「そうどすのん? 昔の……昔のあの方」
あくまでもあの方、であって固有名詞は出てこなかった。女も自身の名を忘れたと言っていたではないか。江戸時代の遊女と武士の恋などは、どこにでもここにでもころがっていたのではないだろうか。
そんなうちのひと組にまちがいないのだとしても、山南敬助と明里だとは、本人ですら明言していないのに。
なのに藤波も、そうだと思いたがっていた。綾音に感化されまくっているとしか言いようがない。困ったものだ。
「ほなら、さいなら」
「ああ、さよなら」
遠くにぼんやりと男の姿が見える。駆け出したのか飛んでいったのか、女はそちらへと行ってしまった。
「幸せになれよ」
照れつつも呟いたところで目が醒めた。死んでしまったカップルも幸せに……いやいや、きっとなれるだろう。恋を成就したんだものな。
さてと、綾音に話してやるべきだろうか。癪だけど話してしまうんだろうな。それについての解釈はおまえにまかせる、と言ったら、また都合のいいように脚色なんかもして、物語だかエッセイだかに仕立てるに決まってる。たかが夢だとは決して言わずに。
あーあ、とため息ついて、しかし、やはり綾音にその話しをしてやるのが楽しみでなくもない、藤波だった。
了
津々井 茜
2
誰が芸術家なんよ? と綾音は笑うが、和臣から見れば小説家だの役者だのというものは芸術家である。さっきからその芸術家ふたりが、俗人そっちのけで議論をしている。ついていけない。
「実話ってなぁ、あんなもんが実話であるわけないだろ。小説だと認めろよ」
「小説とちがうもん。エッセイですよぉだ」
「嘘つけ」
「手紙を書いたやないの」
「あんなもんはいつものおまえの嘘だと決め込んでた」
「人を嘘つき呼ばわりばっかして」
「事実だろうが」
長身の男ふたりにはさまれた女は、山下和臣の最愛の彼女である牧野綾音、小説家。和臣ともうひとりいる男は綾音の親友で、和臣ともいつしか親しくなった藤波俊英、俳優である。
「和ちゃんは信じてくれるよね?」
「信じるのか、和さん?」
「信じてこそ恋人でしょ」
「たとえ恋人であろうとも、それとこれとは話が別だよな、和さん?」
ふたりがかりで別のことを言って問い詰める。和臣は返事ができない。
「とにかく宿の女将さんに頼んだから、も一回見せてもらうの。そのために来たんよ」
過日、和臣は連れていってくれずにひとりで骨休めに出かけた綾音が、京都郊外の宿で怪異現象に遭遇したという。その話をメシのタネにするところは、さすが作家だと俗人の和臣は思う。嘘でもエッセイでも小説でもいいではないか。
うっすらと雪に覆われた、鄙びた宿にやがて到着した。恰幅のいい女将は綾音とはなじみだが、藤波とも和臣とも会うのははじめてで、綾音とふたりの男の関係を推し量っている様子だった。
「このぼさーっとした人が私の彼氏で、こっちのかっこいい人が……て、女将さん、藤波のトシさんは知ってはりますよね」
「はあ、それはもちろん。ようこそおこしやす」
「おいこら、綾音」
おいこら、は藤波の発言である。
「俺はともかく、和さんの紹介の仕方はなんなんだ、それ」
「うるさいね。小姑みたい。言うたげよか。私はぼさーっとした和ちゃんが大好きなんですよ」
「あ、そ」
「まあま、ごちそうさま」
ころころと女将が笑った。
「山下さんと藤波さんどすな。これからはどうぞごひいきに。よろしゅうお願い申します」
無遠慮な綾音の言葉に目を白黒させたものの、さすが商売人は立ち直りが早い。女将は京都の中心部の出身で、生まれも旅館の娘だと綾音から聞いている。如才なさと愛想のよさは天性のものであるらしい。
いそいそと藤波の案内を従業員にまかせ、自身は綾音と和臣を部屋に導いていった。
「トシさんの部屋にこの間の掛け軸、用意しといてくれました?」
「お言いつけ通りにしときましたけど……」
掛け軸の絵の女が夜中にあらわれる、などと言っては営業妨害になりかねないと、綾音は懸念していた。今どきの若者なら見たがってむしろ押し寄せそうにも思うが、ひっそり営むこの宿にはそれも迷惑だろう。
「トシさんがえらく興味を示したから、見せてもらおうと思いましてね。ね、女将さん、かっこええでしょ、藤波さんて」
「そんな彼氏の前で……」
「ええのええの、ね、和ちゃん?」
「うん、トシさんはたしかにかっこええ」
「けど、あたしの彼氏は和ちゃん」
「そうそう」
えらい変わったカップルやわ、と女将の目が語っていた。藤波も常々そう言う。他人にもよく言われるので、和臣は慣れっこだ。
「俺もその絵を見たいな。トシさんの部屋に行ってもええやろか」
「ええんちゃう。行ってみよ」
隣室に行ってみると、藤波はコートを脱いだだけで壁を睨み据えていた。グレイのセーターに色の落ちたジーンズ姿だ。藤波の身長は和臣と大差ないが、脚の長さがあまりにもちがう。同じような服装をしていてこれだけ差がつくのは、和臣にはどうも解せない。センスとルックスの差はいかんともしがたいのであろうか。
芸能界の水に洗われてあかぬけるっつうんは、男にもあるんやろな。和臣はそう考えておのれを納得させた。
壁には目立たない掛け軸がかかっている。さして器量がいいともいえない若い娘が、地味な和服をまとって地味にすわっている絵だった。相当に古びた絵で、素人目にも江戸時代のものにまちがいないと思える。
「どう、トシさん?」
「わかんねえ」
「こんなもんは、って言えへんの?」
「絵を見ただけじゃわからない。酔うと見えるのか。そんなら酒飲んで早めに布団にもぐり込もう。和さん、風呂はどうする?」
「どうする、綾音?」
「綾音と家族風呂に入る? あああ、ひとり者はつらいよ。俺は風呂に行ってくる」
「ひとりで怒ったり嘆いたり、忙しいひとやね」
苦笑いの綾音の前を足音も荒く横切って、藤波は風呂場のほうに立ち去った。綾音が背伸びして和臣に耳打ちする。
「あれで実はわくわくしてるんよ」
「今夜の怪奇現象にか。俺は綾音といっしょに風呂に入れるのにわくわくするなぁ」
「きゃあ、えっち」
「あほ」
ごたごたしているうちに夕食の時間になった。女ひとりならば野菜料理中心の食事でもいいだろうが、男性たちには物足りないだろうと、女将がしし鍋を用意してくれた。テーブルには白ワインや伏見の銘酒なども並び、しごく賑やかだ。
「おまえの小説では、明里だと勝手に決めた女は冥土に旅立ったんだろ」
小説、勝手に決めた、あたりを強調して藤波が言う。
「だったら二度と出てこないんじゃないのか」
「そうかもしれんけど、雰囲気だけでも味わって。今夜も雪になりそうよ」
「邪魔して悪いね、和さん」
「いいえ、慣れてますから」
「実は邪魔か」
「ま、ちょっとは」
くっくと笑った綾音が、和臣と藤波に酒をついでくれた。
* * *
すっかり感化されちまってやがる、と藤波は苦笑するしかない。
半信半疑というべきか、どうせ毎度の嘘八百だろ、と笑い飛ばせずにここまで綾音についてきた。ほろ酔いで夜具に横たわり、なにかが起きるのを待っている。
なにも起きはしなかった。起きはしなかったけれど、藤波はいつしか眠りに漂っていき、夢を見たのだ。
「会えたんだな」
「へえ。こんなに長いこと、待っててくれはりましたんえ」
「長いこと長いことだったね。よかったな」
「おおきに」
絵に描かれていた女が、涼やかに微笑む。絵で見るよりも美人に見えた。
「これでやっとこさ、いっしょになれますわ。そやけど、好きや、て言うてくれはらへん。なんでうちにこんなに優しうしてくれはるの? て訊いても、前からそうやったわ。まだ言うてくれはりまへん。言うてほしいのに」
「昔の男はそんなもんじゃないのかね。正直言うと、今どきの男も苦手だよ。女に好き、なんて言うのは」
「そうどすのん? 昔の……昔のあの方」
あくまでもあの方、であって固有名詞は出てこなかった。女も自身の名を忘れたと言っていたではないか。江戸時代の遊女と武士の恋などは、どこにでもここにでもころがっていたのではないだろうか。
そんなうちのひと組にまちがいないのだとしても、山南敬助と明里だとは、本人ですら明言していないのに。
なのに藤波も、そうだと思いたがっていた。綾音に感化されまくっているとしか言いようがない。困ったものだ。
「ほなら、さいなら」
「ああ、さよなら」
遠くにぼんやりと男の姿が見える。駆け出したのか飛んでいったのか、女はそちらへと行ってしまった。
「幸せになれよ」
照れつつも呟いたところで目が醒めた。死んでしまったカップルも幸せに……いやいや、きっとなれるだろう。恋を成就したんだものな。
さてと、綾音に話してやるべきだろうか。癪だけど話してしまうんだろうな。それについての解釈はおまえにまかせる、と言ったら、また都合のいいように脚色なんかもして、物語だかエッセイだかに仕立てるに決まってる。たかが夢だとは決して言わずに。
あーあ、とため息ついて、しかし、やはり綾音にその話しをしてやるのが楽しみでなくもない、藤波だった。
了
小説(誰も知らない物語)① ― 2011/11/17 12:09
「誰も知らない物語」
津々井 茜
1
明治時代創業ごときでは、京都では老舗扱いもされないと聞く。ここ、京都郊外の鄙びた宿も天保年間創業だとの話で、女将に言わせると、別にたいして古いこともあらへん、となる。
「わぁ、雪化粧、風情があるわぁ」
窓から外を見た綾音は、歓声を上げた。女将がにっこり応じた。
「そうどっしゃろ。今年は雪が多くて難儀してますんやけど、風情だけはありますわな」
久方ぶりの骨休め。正月もすぎたこの時期に、牧野綾音はなじみのこの宿にやってきた。
「大阪は積もらないんですよ。たまにはふるけど、積もるまでいけへんわ」
「そのほうがよろしやないの。雪に慣れてない上方もんは、雪には難儀しますんえ」
「そらそうやわね」
しばし綾音は女将と今冬の豪雪の話をした。
「へぇぇ、地球温暖化は豪雪を呼びますのんか」
「ニュースで言うてましたよ。受け売り」
「ここらはまあこんなもんやけど、北国の人は大変どすなぁ」
京都でも北のほうであるこの地域は、都会に較べれば例年積雪も多い。今年はなおさら多いようだが、風情がある、ですませられる程度なのは幸いだろう。ややあって女将が、それはそうと、と壁を示した。
「暮れに蔵の整理をしてましたら、あんなん出てきましたん」
「見慣れない掛け軸ですね」
昔ながらの日本の部屋の壁に、地味な和服をまとった地味な女の絵が飾られていた。
「牧野さんは江戸時代がお好きどっしゃろ。名のある画家の絵でもないけど、江戸時代のもんなんはまちがいないいうことで、出してみたんどすけど、いかが?」
「掛け軸にも風情がありますねぇ」
「こういうんは気色悪いて言わはるお客さまもいたはるんやけど、牧野さんやったらそんなことないわねぇ」
「そんなことないですよ」
気持ち悪くはないけれど、だからといってどうってこともない。そこにかけられているのも忘れてしまいそうな地味な掛け軸は、やがて綾音の意識から締め出された。
鄙びた温泉に鄙びた食事、田舎料理ではあるが、意外に綾音の好きな白ワインにも合う。なじみの宿なので、綾音の好むワインを用意してくれてあったりもする。ほどほどに満腹してほろ酔いにもなり、早寝するのがここへ来た夜のお決まりだった。
「どこのどなたか存じませんけど、おやすみなさい」
掛け軸の女に挨拶をしたとき、女の骨格が透けて見えた気がした。
「え? 骸骨? なんでよ。酔うてんのとちゃう?」
ひとりごとを言ったはずが、返答があった。
「骸骨て? うちのこと?」
「骸骨とちがいますよね。綺麗な女のひとの絵やわ」
「綺麗でもないけど、骸骨といわれるほどでもないつもりやわ」
「そらそうやわ」
深酔いしたつもりはないが、掛け軸の中の女と話しているのだから、思いのほか酔いが深いのだろう。綾音はそう考えることにした。
「うち、絵? そない言われたら動かれへんなぁ」
「あたしになにかご用?」
「用があるわけやないけど、えらい久しぶりに起きたよってに、話しがしてみとうなった」
「して下さいな」
「うちは絵なんやろ? こわないのん?」
「ぜーんぜん」
なぜかまったく怖くはない。酔っているからだとしか思えない。
「身の上話を聞かせてちょうだいな」
骸骨であろうと絵であろうと、江戸時代の女の身の上話を聞ける機会などあるものではない。綾音の作家根性が騒ぐ。
「お生まれはいつ?」
「知らんわ、いつ生まれたかなんか」
「お名前は?」
「忘れてしもた。うちはどのくらい寝てたん?」
「いつのお生まれかわからんから、正確には言えませんけど、ざっと150年くらいかな」
「150年? それやったら骸骨でもしようがないわなぁ」
「そうかも」
ふふふ、と女が笑う。不気味とは思えず、むしろ愛らしかった。
「うち、寝てたんとちごて死んでたんやね。いつ死んだんかも覚えてないけど、この格好は若い時分やわ。うちの姿とあんたの姿は見えるんえ。若いだけに様子がよろしいやろ」
「はい、とってもお綺麗」
「おおきに。あんたも別嬪さんやわ」
「おおきに、どすえ」
身の上話かぁ、と目だけ動かして、女は続けた。起き上がったものの寒いので、綾音は布団にくるまって耳をかたむけていた。
「ちょうどこの年頃に遊郭に売られて、苦労したんやけど、ええ男はんと出会いましてなぁ。ええお方やったわ。その方の名前も忘れてしもたけど、遊女にも優しいて実があって、あんなお方、めったといたはらへん」
「名前は忘れても、いい方だったのは忘れない、と」
「そういうもんどすえ。うちは長いこと寝すぎてたから……死んでたから? どっちゃでもいっしょやわ。こまかいことは忘れてしもた。けど、あの方、あとにも先にも好きになったただひとりの方。うちより先に死んでしまいはった方。切腹しはった。このごろ来てくれはらへんなぁ、て思てたら、風の噂で聞いたんどす。切腹して死んでしまいはった、て。そんならどうしようもないやないの。死んでしもた方はどうしようもないやないの。うちはあとを追うわけにもいかへん。うちは生きていかなあかん。けど、うちも死んでしもた。なあ、あの方は冥土にいたはるんやろか」
静かな静かな夜半、時が止まっているかのように他に物音はない。女の声ばかり低く響く。
「雪がふっとりますんやな。わかるわ。あの晩も寒かった。あの方が亡くなったて聞いた晩にも、こうやって雪がふってた。雪、見たいなぁ。なあ、あの方とふたりでまた雪が見られるやろか」
答えに詰まっていると、女は言った。
「そうやわ。ふたりとも死んでしもたんやったら、会えるかもしれん。うちもはよぉ冥土に行かな」
「あ、ちょっと……ま」
待って、と言う前に気配が消えた。
その夜はそれっきりだった。翌朝、綾音は掛け軸をじっくり見たが、変わった様子などなにもない。翌夜にもなにもなかった。女将に一夜の怪奇現象を話す気にはなれず、大阪の我が家に帰りついてから、藤波俊英に手紙を書いた。
「……とまあ、こういうことがあったんです。
あの女のひと、明里さんじゃなかったのかなぁ、なんて、都合のよすぎること考えてる? けど、つじつまは合わなくもないでしょ?
トシさんだったらきっと言うよね。
「そもそも明里ってのは架空の人物だと言われてるじゃないか。いたかどうかもわからない女が、なんだっておまえの前に絵になってあらわれるんだよ。そういうのをご都合主義と言うんだぞ。そもそもそんな話しだって、俺に言わせりゃ嘘八百。嘘をつくんだったらもっと上手につけよな」
ごもっともです。
でもさ、穴だらけだからこそ真実だとも考えられない? 考えられない、酔っ払いの夢だ、って断言されてしまいそうやねぇ」
遠い昔、絢音がなじみにしている宿のある京都の田舎で、ひとりの娘が生まれた。彼女は当時の貧しい娘の境遇としてありがちにも、京の都に遊女として売られ、遊郭でひとりの武士と出会う。
明里の名を与えられた娘は、新選組隊士であった武士、山南敬助と恋をし、山南が隊規違反のかどで切腹したのちも彼を想い続けて生き続け、ひっそりと果てた。その有名なエピソードはフィクションだとも言われているが、似たようなことは実際にあったかもしれない。
山南が隊から脱走したのはたしか冬の終わりごろだった。雪のふる寒い夜だったという話も季節に合っている。
いずれにせよ、今となっては誰も真相を知りえない物語だ。が、女は今も男を慕い、会いたいと言って冥土を目指して旅立った。成仏したということなのだろうか。
「うーん、しかし」
ふと、綾音は我に返った。
「そんな名もない娘の肖像画がなぜに残されていたか? それは謎である」
宿は旧家を改築したものなのだから、明里がその家の生まれで、たまたま旅の絵師でも訪れて描いてくれた絵が残っていた、と考えられなくもない。今となってはすべては綾音の想像の産物。
それは永遠の謎である、よくある物語の結句を頭にのぼせて、綾音は藤波の苦い表情を思い浮かべつつ、手紙を書き続けていた。今度会ったら、きっとこの件で議論になる。ああでもない、こうでもないとやり合って、トシさんを言い負かせよう、無性に楽しみだった。
つづく
津々井 茜
1
明治時代創業ごときでは、京都では老舗扱いもされないと聞く。ここ、京都郊外の鄙びた宿も天保年間創業だとの話で、女将に言わせると、別にたいして古いこともあらへん、となる。
「わぁ、雪化粧、風情があるわぁ」
窓から外を見た綾音は、歓声を上げた。女将がにっこり応じた。
「そうどっしゃろ。今年は雪が多くて難儀してますんやけど、風情だけはありますわな」
久方ぶりの骨休め。正月もすぎたこの時期に、牧野綾音はなじみのこの宿にやってきた。
「大阪は積もらないんですよ。たまにはふるけど、積もるまでいけへんわ」
「そのほうがよろしやないの。雪に慣れてない上方もんは、雪には難儀しますんえ」
「そらそうやわね」
しばし綾音は女将と今冬の豪雪の話をした。
「へぇぇ、地球温暖化は豪雪を呼びますのんか」
「ニュースで言うてましたよ。受け売り」
「ここらはまあこんなもんやけど、北国の人は大変どすなぁ」
京都でも北のほうであるこの地域は、都会に較べれば例年積雪も多い。今年はなおさら多いようだが、風情がある、ですませられる程度なのは幸いだろう。ややあって女将が、それはそうと、と壁を示した。
「暮れに蔵の整理をしてましたら、あんなん出てきましたん」
「見慣れない掛け軸ですね」
昔ながらの日本の部屋の壁に、地味な和服をまとった地味な女の絵が飾られていた。
「牧野さんは江戸時代がお好きどっしゃろ。名のある画家の絵でもないけど、江戸時代のもんなんはまちがいないいうことで、出してみたんどすけど、いかが?」
「掛け軸にも風情がありますねぇ」
「こういうんは気色悪いて言わはるお客さまもいたはるんやけど、牧野さんやったらそんなことないわねぇ」
「そんなことないですよ」
気持ち悪くはないけれど、だからといってどうってこともない。そこにかけられているのも忘れてしまいそうな地味な掛け軸は、やがて綾音の意識から締め出された。
鄙びた温泉に鄙びた食事、田舎料理ではあるが、意外に綾音の好きな白ワインにも合う。なじみの宿なので、綾音の好むワインを用意してくれてあったりもする。ほどほどに満腹してほろ酔いにもなり、早寝するのがここへ来た夜のお決まりだった。
「どこのどなたか存じませんけど、おやすみなさい」
掛け軸の女に挨拶をしたとき、女の骨格が透けて見えた気がした。
「え? 骸骨? なんでよ。酔うてんのとちゃう?」
ひとりごとを言ったはずが、返答があった。
「骸骨て? うちのこと?」
「骸骨とちがいますよね。綺麗な女のひとの絵やわ」
「綺麗でもないけど、骸骨といわれるほどでもないつもりやわ」
「そらそうやわ」
深酔いしたつもりはないが、掛け軸の中の女と話しているのだから、思いのほか酔いが深いのだろう。綾音はそう考えることにした。
「うち、絵? そない言われたら動かれへんなぁ」
「あたしになにかご用?」
「用があるわけやないけど、えらい久しぶりに起きたよってに、話しがしてみとうなった」
「して下さいな」
「うちは絵なんやろ? こわないのん?」
「ぜーんぜん」
なぜかまったく怖くはない。酔っているからだとしか思えない。
「身の上話を聞かせてちょうだいな」
骸骨であろうと絵であろうと、江戸時代の女の身の上話を聞ける機会などあるものではない。綾音の作家根性が騒ぐ。
「お生まれはいつ?」
「知らんわ、いつ生まれたかなんか」
「お名前は?」
「忘れてしもた。うちはどのくらい寝てたん?」
「いつのお生まれかわからんから、正確には言えませんけど、ざっと150年くらいかな」
「150年? それやったら骸骨でもしようがないわなぁ」
「そうかも」
ふふふ、と女が笑う。不気味とは思えず、むしろ愛らしかった。
「うち、寝てたんとちごて死んでたんやね。いつ死んだんかも覚えてないけど、この格好は若い時分やわ。うちの姿とあんたの姿は見えるんえ。若いだけに様子がよろしいやろ」
「はい、とってもお綺麗」
「おおきに。あんたも別嬪さんやわ」
「おおきに、どすえ」
身の上話かぁ、と目だけ動かして、女は続けた。起き上がったものの寒いので、綾音は布団にくるまって耳をかたむけていた。
「ちょうどこの年頃に遊郭に売られて、苦労したんやけど、ええ男はんと出会いましてなぁ。ええお方やったわ。その方の名前も忘れてしもたけど、遊女にも優しいて実があって、あんなお方、めったといたはらへん」
「名前は忘れても、いい方だったのは忘れない、と」
「そういうもんどすえ。うちは長いこと寝すぎてたから……死んでたから? どっちゃでもいっしょやわ。こまかいことは忘れてしもた。けど、あの方、あとにも先にも好きになったただひとりの方。うちより先に死んでしまいはった方。切腹しはった。このごろ来てくれはらへんなぁ、て思てたら、風の噂で聞いたんどす。切腹して死んでしまいはった、て。そんならどうしようもないやないの。死んでしもた方はどうしようもないやないの。うちはあとを追うわけにもいかへん。うちは生きていかなあかん。けど、うちも死んでしもた。なあ、あの方は冥土にいたはるんやろか」
静かな静かな夜半、時が止まっているかのように他に物音はない。女の声ばかり低く響く。
「雪がふっとりますんやな。わかるわ。あの晩も寒かった。あの方が亡くなったて聞いた晩にも、こうやって雪がふってた。雪、見たいなぁ。なあ、あの方とふたりでまた雪が見られるやろか」
答えに詰まっていると、女は言った。
「そうやわ。ふたりとも死んでしもたんやったら、会えるかもしれん。うちもはよぉ冥土に行かな」
「あ、ちょっと……ま」
待って、と言う前に気配が消えた。
その夜はそれっきりだった。翌朝、綾音は掛け軸をじっくり見たが、変わった様子などなにもない。翌夜にもなにもなかった。女将に一夜の怪奇現象を話す気にはなれず、大阪の我が家に帰りついてから、藤波俊英に手紙を書いた。
「……とまあ、こういうことがあったんです。
あの女のひと、明里さんじゃなかったのかなぁ、なんて、都合のよすぎること考えてる? けど、つじつまは合わなくもないでしょ?
トシさんだったらきっと言うよね。
「そもそも明里ってのは架空の人物だと言われてるじゃないか。いたかどうかもわからない女が、なんだっておまえの前に絵になってあらわれるんだよ。そういうのをご都合主義と言うんだぞ。そもそもそんな話しだって、俺に言わせりゃ嘘八百。嘘をつくんだったらもっと上手につけよな」
ごもっともです。
でもさ、穴だらけだからこそ真実だとも考えられない? 考えられない、酔っ払いの夢だ、って断言されてしまいそうやねぇ」
遠い昔、絢音がなじみにしている宿のある京都の田舎で、ひとりの娘が生まれた。彼女は当時の貧しい娘の境遇としてありがちにも、京の都に遊女として売られ、遊郭でひとりの武士と出会う。
明里の名を与えられた娘は、新選組隊士であった武士、山南敬助と恋をし、山南が隊規違反のかどで切腹したのちも彼を想い続けて生き続け、ひっそりと果てた。その有名なエピソードはフィクションだとも言われているが、似たようなことは実際にあったかもしれない。
山南が隊から脱走したのはたしか冬の終わりごろだった。雪のふる寒い夜だったという話も季節に合っている。
いずれにせよ、今となっては誰も真相を知りえない物語だ。が、女は今も男を慕い、会いたいと言って冥土を目指して旅立った。成仏したということなのだろうか。
「うーん、しかし」
ふと、綾音は我に返った。
「そんな名もない娘の肖像画がなぜに残されていたか? それは謎である」
宿は旧家を改築したものなのだから、明里がその家の生まれで、たまたま旅の絵師でも訪れて描いてくれた絵が残っていた、と考えられなくもない。今となってはすべては綾音の想像の産物。
それは永遠の謎である、よくある物語の結句を頭にのぼせて、綾音は藤波の苦い表情を思い浮かべつつ、手紙を書き続けていた。今度会ったら、きっとこの件で議論になる。ああでもない、こうでもないとやり合って、トシさんを言い負かせよう、無性に楽しみだった。
つづく
つのる思い ― 2011/11/03 21:38
あなたへの思いが

日に日に増して

赤く色づいて来ました。
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